このまま、このまま時が止まってしまえばいい。しかし絡めた指先は段々と解け、指と指の隙間からその願いも零れ落ちていった。
「もう……行くのですか?」
「ああ」
問いに短く返事をすると、私の額に小さく口付けた。慌てて彼の方を見上げれば、いつもの感情が見えないエメラルドグリーンの瞳と視線が合う。
彼はゆっくりとベッドから立ち上がり、床に散らばる自らの肌の色と似た死覇装を拾い集めるとそれを身に纏っていった。もうそこには先程の行為の色を一切感じさせない、完璧な第4十刃ウルキオラ・シファーの姿。
「藍染様の命で暫く空ける。後のことは任せる」
彼は部屋の扉を開けるとそう言い残して部屋から出て行った。シン……とした静かな部屋にはドアが閉まる重たい音だけが響く。
私も彼と同じように死覇装を拾い集め、そしてそれに袖を通す。ヒンヤリとした服の冷たさは切なさに悲鳴を上げる胸の痛みにどこか似ていた。
こうした行為を何度重ねただろう。それでも私は彼の恋人でも何でもない。……いつからだっただろうか、私が第4十刃の従属官に就いて暫くした頃だった気がする。
大した能力も持っていない私が従属官になれる、しかも従属官を従えないという彼の。これ以上にないくらいにとても浮かれた。恋にも似たような憧れの存在で……そんな彼の側でお仕えする事になるなんて夢にも思っていなかったから。
けれども……
私は従属官であるにも関わらず、何も知らない。彼が藍染様の命で何処へ行き、何をしているのかも。勿論、同行させてもらったことなどない。
彼から私に求められることは、ただ一つ。ああやって、恋人の真似事の相手。最初は戸惑った……何故私なのか。そういう素振りを一切見せなかった彼が、何故。
けれども一度彼に抱かれてしまえば、そんなことなどすぐにどうでもよくなった。彼に対する感情は憧れではなく恋そのものなんだと理解した時、それはもうただただ嬉しくて。それだけで充分、これだけで幸せなんだ。この気持ちを伝えられなくても、彼にその気持ちがなくても、彼の側にいられる、触れてもらえる。
でも……そんなのは最初だけだった。
束の間の幸せは苦しみに、傷口が赤く腫れてはやがて膿んでいく様にそれは痛みに変わる。関係を重ねれば重ねる程、侵食されていく……
ふと、窓の外を見ると彼の姿が見えた。急いで部屋を出て彼の後を追う。何故、どうしてそうしたのかは分からない。それでも強いて言うなら……こうして一人でいるとこうして色々と考えてしまうから、だと思う。
胸を締め付ける痛みを振り払うように、先を行く彼の後を必死に追った。
やっとの思いで辿り着くと数人の破面と刀を交えている彼の姿がそこにあった。
あれは……葬討部隊が処理出来なかった破面。その場の霊圧に恐怖で足が竦んだけれど意を決し、戦闘に加わろうと斬魄刀に手を掛ける。その瞬間、ほんの一瞬彼と目が合った。険しい表情のエメラルドグリーンは『出てくるな、そこにいろ』と伝えている気がした。
激しく刀と刀がぶつかり合う音。白く煌めく砂の海を紅く染め上げる鮮血。彼に切られた破面の断末魔の叫び。その光景に吐き気と苦しさでいてもたってもいられなくなり、その場を急いで響転で離れた。
少し離れたところで足を止め、浅く荒い呼吸を繰り返す自分自身をなんとか落ち着かせようとする。
役立たずだ。
これでは彼が何も言わずに任務に行くのも当たり前で……
では……何故彼は私を従属官に……?
「第4十刃の従属官……か」
周りには誰の気配もなかったはずなのに、突然後ろから掛けられた声に胸が跳ねた。
敵……
震えだす身体。それでも、いつでも抜ける様に腰の斬魄刀の鯉口を切り、振り返ろうとした瞬間、腹部に燃えるような熱さを感じた。
「えっ……」
一体何が起こったのか。もう何がなんだか分からず、とりあえず自分の腹部に目を遣る。すると背から腹を貫く斬魄刀の切先。ジワジワと滲む赤い液体。
刺された、と頭が理解すると同時にどうしようもない痛みが全身を襲った。刺された中心から全身が火で焼かれているかのように熱くなっていった。そして身体が痺れ、立っていることが段々と難しくなる。
「従属官と聞いてどれほど強いのかと思ったが、大したことな……」
ザクッ。
敵の破面の言葉が途切れ、そして代わりに何かを貫いた音が聞こえた。気が付けば目の前には斬魄刀を手に腕を私の後ろへ突き出す彼の姿。彼が手前に斬魄刀を引けば赤い雫が宙を舞い、そして人が地面に崩れ倒れたような音がした。腹に刃が刺さる重い感覚が消えたと思った瞬間、身体の力が抜けて足に力が入らなくなり重力に従うように地面へ身体が傾く。
しかし白い何かに包み込まれ、そのまま地面にぶつかる事はなかった。彼の……ウルキオラ様の腕の中だった。
「おい!しっかりしろ!!」
こんな声を荒らげる彼の姿を見るのは初めてだった。いつも冷静沈着で感情を顕にしない彼の初めて見る表情。
錆びついた機械のように重く上手く動かないけれど、彼のその蒼白の頬に向かって手を伸ばした。すると頬を掠めた指先が僅かに濡れた。その直後、雨もないのにこの身体を軽く叩く雫、生暖かい涙だった。
「すみま……せん、足手まといに……」
「……謝らなければならないのは、俺だ」
そう呟く彼の声はとても細く、揺らいでいた。
身体がとても温かかった。
それは身体から漏れ広がる鮮やかな紅の熱の所為だろうか。それとも……私を抱き寄せてくれた彼の、布越しからでも伝わってくる体温だろうか。
段々とその感覚も、意識も遠くなっていく気がした。もう、このまま朽ち果て消えていけるのなら、それもいいかもしれない。そう思えた。
彼にまだ何も伝えてない。
『好き』だって。
それでも、ウルキオラ様……
貴方のその感情を顕にした涙は、そして体温は、私を大切に思ってくれていたからだと……
そう自惚れてもいいですか?
「ん……」
重い瞼を薄らと開ける。目に映るのは、寝起きにいつもの見る景色だった。少し身体が重たく鈍い痛みを腹部に感じるし、意識もある。消滅した後の世界というのは案外普通なのだろうか。異様に高い天井、薄暗い部屋の灯りも最低限しか置かれていない家具も、虚夜宮の自室そのままだ。そしてウルキオラ様の姿も……
え?ウル……キオラ様……?
彼は憂いを帯びた、とても重たく鈍い色を放つエメラルドグリーンの瞳でジッと私を見つめていた。
「ウル、キオラ……様?」
「……何故あの様な行動をとった。俺は後のことは任せる、と虚夜宮での待機を命じたはずだが」
重い身体をゆっくりと起こし、そして彼の名を呼ぶ。すると彼の少し怒気を含んだような地を這うような低音が、静かな部屋に反響した。
私が余計な行動をとったから……彼の言いつけをしっかり守っていればこんなことにはならなかった。自分のしでかした行動に彼を直視出来ず、視線を下に向け俯く。どんな顔して彼を見ればいいのだろう。そしてなんて彼に言えばいいのだろう。
『従属官』にも『恋人』にもなれない、今のこの関係が苦しくて辛くて……と言えばいいのだろうか。
「ごめん……なさい」
「すまない……」
お互い何も言葉を発することなく、続いた沈黙。その末に私の唇が紡いだ言葉は謝罪だった。言えるわけがなかった。命令を無視した理由だなんて。
だけど……双眸を伏せて、ゆっくりと彼が紡いだ言葉も謝罪だった。
「怪我をさせてしまった……」
「ち、違っ……あれは私が勝手にっ」
「いや、お前の所為ではない。今までお前に何も告げず、不安にさせてしまった俺の責任だ。……お前を危険に晒したくはなかった。恐ろしかった……お前を、失うのではないのかと」
「っ……?」
どういう……こと?
彼の言っていることは分かるのに、意味が分からなかった。それは嘘だと、そんな訳がない、と理解することを脳が拒否するような。それは……私は彼にとってどういう存在なんだろうか。
「ウルキオラ様……貴方にとって私はどういう存在ですか?従属官ですか?……それとも……」
そこで言葉を切る。今までずっとその答えを知りたいと思っていたはずなのに、いざその場面に直面すると恐怖でいっぱいになった。もし、もし私が求めている答えと違っていたら……
ふと、彼の方を見上げる。伏し目がちになっている彼の唇が僅かに動き始めた。
「俺はお前を傷つけ汚した。それ以外にもお前に対する感情を伝える術はあったはずなのに、だ」
ゆっくりと、私にではなく自分に言い聞かせるように言葉を発した彼の声は微かに震えているような気がした。一呼吸置くと、彼は続けた。
「俺にこんなことを言う資格は無い。だが……もし赦されるならば言わせて欲しいことがある」
吸い込まれそうな程に深いエメラルドグリーンが私を捉える。じっと私を見据えるその瞳から目を逸らすことが出来なかった。私が小さく頷くと、彼は口を開いた。
「好きだ」
たった三文字の、それだけの言葉。それでも、私の胸の痛みを消すには充分すぎるくらい大きなものだった。同じ気持ちであることを彼に伝えれば、額に小さなキスが降ってきた。幾度となくこうしてキスをされてきたはずなのに、今のは違った。今まで感じてきた切なさや寂しさを含んだ気持ちとは全く違う、とても満ち足りて、幸せな気分に包まれた。
ベッドに添えられた彼の指先にそっと、自分の指先を絡め合わせた。軽く私が握れば彼がそれに応えるように優しく握り返す。二度と解けぬように、この幸せがいつまでも続くように。
ムーンダスト
(永遠の幸福を、重なり合う掌の中に閉じ込めた)(20170326)