「すまない、今日は会えそうにない。この埋め合わせは必ずする」
その言葉はもう何度目だろう。
声が途切れ、無機質な電子音を永遠と繰り返し続けている携帯の電源を切ると、そのままベッドへ飛び込んだ。夕暮れが過ぎ夜の帳に包まれ始める部屋。真っ暗闇の中、適当に置いてあるクッションを抱え込んだ。熱を抱えた目尻から堪えきれずに流れ出したひとしずく。それは頬を濡らしそのままクッションまで濡らしていった。そこからは早かった。一度流してしまえば、それは次から次へと、ダムが決壊したかのように止めどなく溢れ出てくる。
彼は忙しい人だから、とそう自分に言い聞かせてみるけれど、そうすればそうするほど、この頬を濡らす涙は止まらない。仕方ない、とそう言って慣れていくことが出来るほど、私は大人にはなりきれなかった。
別れ。
ふと頭をよぎった言葉。いや、ずっと考えていたことだった。それでも、私は甘えていたんだ、彼を失うことが怖くて。彼に別れを告げ、独りぼっちになってしまうことが。けれども、もうそれは止めにしなければならない。
今まで彼と築いてきた大切なものまで、そんな感情で汚したくないから。
自分の考えがまとまり、あの日から3日経った頃。瀬人と数十分会う約束を取り付けた。私が勉強を終えた後の、夕暮れの橙に染まる学校の教室。そこが約束の場所。皆、部活やら下校やらでこの教室は私一人の静かな部屋だった。時折開け放たれた窓の外から聞こえるのは、運動部の掛け声。夕方の学校のいつもの光景。一つを除いては。
「……どうした?様子がおかしいぞ」
外を眺めていると私を呼ぶ瀬人の声が聞こえた。その声に彼の方を向けば、彼は私の様子がおかしいと言う。けれども、私から見れば彼も十分に挙動不審に感じられた。きっとお互い理解しているのだろう、この後に起こることを。
「瀬人……あの、ね、言わなきゃならないことが」
「ああ……」
「別れよう、私たち」
彼は一瞬、そのコバルトブルーの瞳を大きく見開いた後、静かに瞳を閉じた。少し考える風にそのまま流れる沈黙。そして彼がゆっくりと瞼を開けると、そこには真剣な眼差しがあった。
「そうだな……それが一番いいだろう」
「うん」
「オレもお前との時間がとれないことが苦しかった。お前には悲しい思いをさせてしまっただろうし、オレと付き合わなければこんなことにもならなかったかもしれんと……」
そこで彼は一旦言葉を切る。少し辛そうに眉を顰めていた彼は、その表情を柔らかく優しいものへと変え、再び口を開いた。
「だが、お前と過ごした時間はかけがえのない、失いたくない大切なものだ。だから……付き合わなければよかったと心の底から後悔する前に。この幸せで大切な時間を後悔に変えるその前に……別れよう」
そう言った彼の、澄んだコバルトブルーの瞳。それが夕暮れの陽の色を纏い、光を浴び時折輝くその様に思わず溜め息が出そうだった。
「お前に言わせて悪かったな」
「ううん、最後まで瀬人と同じ気持ちでいたこと、とても嬉しかったよ」
自分の右手をゆっくりと彼に差し出した。すると彼も手を差し出し、二人の手が重なり合った。これが最後だと、惜しむように指先を絡め合う。入り混じる切なさと、安堵。なんとも表現し難い想いがこの胸を支配した。
それでもこの絡めた指先に込められた大切なモノ……キラキラと輝く宝石のように綺麗なかけがえのないモノを、ずっと守り続けていきたいと思った。
「ありがとう、瀬人」
そしてさようなら。
僅かに名残惜しさを残しながら、絡めた指先を解いていく。そして夕暮れの、彼のいる教室を後にした。
絡めた指先に残ったモノ
(それは彼の温もりと、幸せな想い出の欠片)それは甘い20題:03.指先
(配布元:確かに恋だった)
(20170409)