名前を呼んでも、貴方はその足を止めることもなくて。
貴方は振り返ることもなく私から離れていく。
「っ……」
「……大丈夫か?酷くうなされていたぞ」
「れ、んじ……」
瞼を開けると、心配そうに私を覗き込む蓮二の顔が映った。速い鼓動を刻む心音、苦しさを感じる荒い呼吸、目尻から溢れ頬を伝い首筋まで流れた熱い滴。夢……夢と分かった今でも、鮮明にその場面が浮かぶ。今にも泣き出しそうな重々しい曇天に遠くから漂ってくる雨の匂いや微温く吹く風が私の前髪を揺らし額を撫でる感触……夢とは思えないくらいにとてもリアルだった。
そして、私から離れていく蓮二の姿。追いかけても追いつかない、名前を叫んでも反応することなく。ただただ、立ち尽くし遠ざかっていく蓮二の背中を見つめることしかできなかった、そんな夢。
「ご、こめん……眠れなかったよね」
「俺のことはいい。怖い夢でもみたか?」
「うん」
「そうか……怖かったな。、もう大丈夫だ」
そう言って私の頬を濡らす雫を指先で優しく拭うと、まるで子供をあやすように大きな掌で頭をゆっくりと撫でた。せっかく拭ってもらったばかりなのに、自分の目尻が段々と熱くなるのを感じ、溢れでてこようとする滴を隠すように蓮二の胸に顔を埋める。温かな蓮二の体温、優しい蓮二の香りがとても心地よくて、安心させてくれた。けれども、目を瞑って眠りについてしまえば、この温かさも香りも全部忘れてしまう。蓮二が傍にいてくれていることも、また……
独りぼっちで知らない空間に放り出されてしまう。
「眠りたくない……」
ふいに乾いた喉から絞り出された言葉。
私の本心。
「眠ったらまた独りになっちゃう。離ればなれになって、蓮二がいなくなっちゃう」
「、こっちを向け……」
頭上から降り注いだ大好きな人の優しい低音。その声に蓮二の胸から離れて顔を上げると、カーテンの隙間から零れる月明かりに照らされた栗皮色の双眸と目が合った。普段は伏せられていることが多い蓮二の瞼が開くと、彼をよく知らない人はみんな口を揃えて怖いと言うけれど、それは彼のこの表情を見たことがないからだと思う。
この……とても柔らかくて、安心させてくれる優しい眼差しを。
「大丈夫だ俺はここにいる。お前の隣にずっと、だ」
「……っ」
「お前が離ればなれになってしまうと不安なら、俺がこうして手を握っていてやる。決して……この手を離したりはしない」
骨張った、それでいて繊細さを持った大きな手が私の左手を取ると、スッと互いの指先を絡め合わせた。弱くもなく、けれども決して強過ぎるわけでもなく絡め合い握られた指先同士。
「だから、」
そこで言葉を切ると、長い指先がそっと……ゆっくりなぞる様に私の頬を撫でた。そして、蓮二の顔が近づいてきて影で暗くなったと思ったら、目尻に注がれたとても柔らかく愛しい感触……口付け。
ほんの一瞬のそれの後、蓮二は私から顔を離すと整った唇で綺麗な弧を描き微笑んだ。すごく温かくて優しい気持ちに体全身が満たされていくようで……さっきまでの重苦しい感情が嘘みたいに、力が抜け重力に従って閉じられていく瞼。
「安心して、ゆっくりとお休み」
insomnia
(貴方がいる……この瞼を閉じても私は、ひとりじゃない)(20160811)