冷めた珈琲

ピンクを基調とした可愛らしいテーブルに置かれた、湯気を立ち上らせるふたつのマグカップ。少し啜ろうとその一つに手を伸ばせば、満たしている褐色に揺らめきながら映る自分の顔。それはもう、あまりにも酷く見えたものだから、思わず瓶に入った角砂糖を取り出してはひとつ、またひとつと映る自分を掻き消すようにカップに落とす。落とされた角砂糖は褐色の小さな池に波紋を描きながらゆっくりと溶けていった。それでも、目の前の褐色に映る自分の顔はやはり相も変わらず酷いもので……
重苦しい……
この後に起こること、自分が彼女に告げなければいけないことを考えると。





「れ……んじ……?蓮二?」
「あ、ああ……」

ハッと、カップから視線を上げれば、何度か俺の名を呼んでいたらしいが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。そんなの手には甘く香ばしい匂いを発するアップルパイが乗る皿。
普段なら唾液腺を刺激し胃袋擽られ、頬を緩ませてしまうであろうその香りだが、今はそれどころか胃液が食道、咽頭へせり上がり嘔吐きそうになる。

「今日はね、蓮二が来てくれるの嬉しくて、アップルパイ焼いちゃった!」
「っ……」

気持ち悪さを堪えながらも、ありがとう、とても嬉しい、と紡ぎそうになった口を慌てて噤む。勢い余って噛み締めた唇から、ジワジワと口の中へ鉄の味が広がっていった。

駄目、だ……駄目なんだ。
昨日もそうだったではないか。

そして一昨日も……その前も……



付き合うようになった当初はこんな感じではなかったように思う。けれど、いつの間にか俺もも何事よりも互いの事を優先するようになっていたし、それしか考えられなくなっていた。簡単に言えば……依存、というやつだろう。は自分のことを話さなくなったし、趣味や自分の好きなことを話す時の太陽のような笑顔を見ることもなくなった。そのことを問えばそんなことはないと笑う。だがその姿はどこか辛そうに見えた気がした。にその自覚がなくとも、俺がそうさせてしまったのだろう。

そうするつもりがなくとも、このままでいれば俺はの全てを奪っていってしまう。
だから、もう、駄目なんだ。

俺も、彼女も……
きっと、今ならまだ間に合う。


。今日はあることを伝えに来たんだ」

全てを無くしてしまう前に。

「え?なになに?」

繋いだ手を離そう。

不思議そうな表情を浮かべるを見据え、軽く息を吸い込んだ。

「……別れよう」

たった5文字の、別れの言葉。
喉に引っかかり中々出てこようとしなかったそれを発した瞬間、突然時の流れが遅くなったような気がした。
目の前のがその大きな瞳をこれでもかと更に見開いた後崩れ落ちると、が手に持つパイ皿もそのまま床に落ちる。
皿が床に叩きつけられ、飛び散る割れた破片ひとつひとつが宙を舞うその全てがスローモーション。
別れを切り出す、ということがこんなにも辛いことだとは思わなかった。
世界の何もかもがひっくり返るような、眩暈にも似た不思議な感覚。

終わる時は一瞬だ。
それでもの痛みに比べればこんなもの、些細なものだろう。










静かな部屋に小さな寝息が響く。
どれくらい時間が経っただろうか。とうに湯気が消え去った目の前の珈琲は、間違いなく完全に冷えきっているだろうし、ここへ来た時に西陽の橙に染まっていた部屋はもう既に真っ暗だ。
ふと窓から月の光が射し込み、を淡く照らした。赤く腫れた瞼に、頬にうっすらと浮かぶ涙の乾いた跡。

「……すまない」

一体何に対して謝っているのか、自分自身よく分からなかった。
互いに依存していることが分かっていてどうすることも出来なかったこと?
ただ一方的に別れを告げたこと?

挙げたらキリがないが……全部だろうな。

少し潤み歪む視界の中、冷めた珈琲が入ったマグカップに手を伸ばす。
が入れてくれた最後の珈琲。
それを一口啜り、ゆっくりと腰を上げた。



冷めた珈琲

(とても甘いはずの珈琲は、とても塩っぱかった)


(20170325)