ヴィオレに堕ちていく

静かな教室の、開け放たれたの窓から入り込む冷たい風が夕暮れ色に淡く染まるカーテンを揺らして、私の頬を撫で上げた。窓枠いっぱいに見える沈みゆく橙を終わりを知らない深い青が飲み込んでいくその様は、綺麗だと思うのと同時にほんの少しの恐怖と胸を抉るような不安を抱かせる。
……こんな気持ちになるのは、あの日の夕暮れもこんな感じだったからだと思う。





あまり人気の無い道でふと目に入った、見覚えのある髪色。夕暮れの、燃えるような橙を浴びて少し雰囲気を変えてはいたが、深くて重い……そしてどこか神秘さを携えていたそれは間違いなく彼の色。そして彼が見つめる、その視線の先は……

深く思い出すつもりは無かったのに、一つ思い出せば雪崩のようにあの時の記憶が押し寄せる。そしてそれはまるでタイムスリップでもしたかのように、目の前にあの場面を映し出した。
妖しく微笑む彼の視線の先には、ルージュの口紅が似合う大人の女性の姿。女性は彼のその微笑みに応えるかのように、彼との距離を詰めていく。そして、二人を隔てる距離がゼロになった時、ふたつの唇がほんの少し触れ合った。そのまま何度も何度も啄むように唇を重ね合わせると、互いの舌をまるで縫い合わせたかのように深く絡めていく。
ふたつの唇から顎を伝って重力に従い滴り落ちる、混ざり合いどちらのものとも言えない唾液。ぽたり、ぽたり……と地面目掛けて落ちてゆく雫の一粒一粒の、その半透明の丸い形までもが鮮明に。

そんなキス、知らない。
そんな幸村精市……私は、知らない。

酷く胸が痛んだ。
ギューッと、誰かに心臓を強く握られているみたいに。

なんで?
どうして?
そんな言葉ばかりが頭の中を支配する。
付き合うようになって一年が過ぎ、互いの想いは同じものだと信じて疑いもしなかった。
けれど違った。今まで私に向けてくれた柔らかい微笑みも、私に囁く愛の言葉も全て嘘だったのかもしれない。

気付けば床に吸い寄せられるかの様にペタンと膝をついていた。

「どうしたんだい?」
「うぅ……あっ」

突然、頭上から降り注いだ声に一瞬で現実に引き戻される。しかし、驚きと恐怖と不安でただ言葉にならない声を上げることしか出来なかった。
声をかけた人物に誰と聞く必要も、その方を見やる必要なんてない。どこか柔らかくもどす黒い何かを孕んでいるような声音を発する人物なんて、彼の他誰もいないから。

「ねぇ、。どうした、と聞いているんだけど。聞こえなかったのかな?」
「なんでも、ないの。大丈夫」
「そう。でも大丈夫なように見えないんだけどね」

その言葉に慌てて立とうとしたけれど、どういうわけか力が入らない。何度も何度も立とうと試みるけれど身体はぷるぷると震えるばかりで、産まれたての仔馬が自分の力で必死に立とうとしている、そんな表現がぴったりな状況だった。

ああ……昨日のこと、彼に聞いてしまおうか。もしかしたら昨日見かけた人物が彼じゃないかもしれない。そうだったらこんな悩み苦しみからすぐに解放され、あれは私の勘違いだったと……これからも彼と仲良くいられるのだ。

「……ねぇ、昨日……っ」

顔は俯いたままに喉の奥から絞り出すように言葉を紡ぐ。しかし、なかなかその次の言葉が出なかった。もし彼だったとしたら……そう想像したら目尻がだんだんと熱くなっていき、それは雫となって頬へ伝い落ちる。すると、ダムが決壊したかのように止めどなく目尻から溢れ出てきては、視界を歪ませていった。

「         」

もうどうにも堪らなくなって、そのまま勢いに任せて唇を動かした。でも、自分が何を言ったのか、それは彼に伝わったのかも分からない。嗚咽が邪魔をして喘ぐだけの意味の無い言葉だったかもしれない。それでもきっと、きっと彼なら私から零れた言葉を拾って、私の中の不安を消し去ってくれるはず。それは人違いだと、安心していいと……そんな思いを抱きながら彼の方を見上げるが、その期待や希望はいとも簡単に打ち砕かれた。

彼の、光を持たない菫の双眸。

視るもの全てを凍てつかせる氷の様な視線に身体は小刻みに震え出し、喉の奥はカラカラに乾きそして、目尻から溢れていたものも一瞬で止んだ。

「ごめん、。何を言ってるのか分からないや」

彼の温度を持たない声が頭の中で反響した。



「あぁ……もしかしてアレのこと、かい?」

少しの沈黙の後、今思い出しました、というような感じでわざとらしく彼が呟いた。その後に続く言葉も私の求めるものではないと分かっていても、この耳は彼の一語一句を拾うだろう。
聞くべきではない、シャットアウトしろと絶え間なく脳は警鐘を鳴らすのに、この身体はピクリとも反応しない、動かない。

「別に大したことじゃないだろう?君が俺を必要とし、そして好きならどうだっていいよね、そんなこと」
「せい、いち……」
「嫌なら離れればいい。単純なことさ……そうだろう?」
「……っ」

ショックのあまりに何も言い返せないままでいると、突然彼に腕を掴まれそのまま引っ張られた。私の身体は少しも抵抗することなく殆ど雪崩込むような形で彼の胸へ引き寄せられる。
それから少しも間を置くことなく、顎を上へ持ち上げられ柔らかいものを唇に軽く押しつけられた。

「んんっ……」

押しつけられたそれが彼の唇だと理解する頃には、啄むように何度もキスを繰り返されていた。あの時と同じ。あの女性としていたキスと同じだ。
何度か繰り返される啄むようなキスの後、彼の肉厚な舌が私の唇を軽く叩いた。
条件反射で薄く唇を開いてしまい、しまったと気付く頃にはもう遅く、その薄く開いた隙間に舌をねじ込まれていた。口内で蠢く彼の舌から慌てて逃れようとするもそれは無駄な努力に終わり、舌を絡め取られ、吸われ、甘噛みされ……

激しいキスで酸欠になったのか、もう殆どがどうでもよくなってきた。私が悩んでいたことなんて、ちっぽけなことだ。私は彼が好き、それで充分じゃない。

ふと、吸い込まれてしまいそうな、深い、霞の瞳と目が合う。
そう、この深い霞色から逃れることなんて出来ない。

でも、それでいい。
こうしてこのまま……



ヴィオレに堕ちていく

(溺れてしまったら、あとは沈んでいくだけ)


(20170328)