なんの音もなく静まり返った本丸。今まで大人数で暮らしていたのがまるで嘘のようで……
「主、こんな所にいては風邪をひいてしまうよ?」
ふいに聞こえた縁側を軋ませる音。私の真後ろでその音は止み、代わりに優しい低音が頭上から降り注いできた。石切丸。私の近侍。そして……想いを通わせあった愛しき人。
肩に柔らかい何かが掛かる。どうやらそれは、石切丸が持ってきてくれたらしい肩掛けだった。そんな彼に小さくお礼を言う。この後、私がしなければならないことを思うと、胸が張り裂けそうな想いで、とてもじゃないけれど今まで通りのように言えなかった。
「ありがとう……」
「雪……か。この前までは暖かかったのだけれどね」
「そうね」
「明日も雪、みたいだよ。暖冬のときはドカ雪が降ると言われてたりするからね」
「……そうね」
これから起こること、彼が知らない訳がないはずなのに。どうして貴方はそうやって今まで通りのなんでもないようなフリが出来るの?貴方だって辛いはずなのに……。きっと私を案じてのことなのだろう。とても優しい貴方だから、私がきちんと刀解出来るように、そうしてくれているのだ。
ごめんなさい……
「ねぇ、石切丸さん。こうなるなら私たち出逢わなければよかったのかな。貴方のことを好きになら……」
「そんな事言わないで欲しいな。主、私は幸せだよ。君と出逢えたこと。そしてこうして想いを通わせ合えたこと」
「でもっ……でもこんなっ……」
まだ、まだ何もしていない。貴方に何も渡してないのに。お互い想いが一緒だと、想いを通わせあっただけなのに。なんでこんなっ……。胸が張り裂けそうなくらいにズキズキと悲鳴を上げた。目頭は段々と熱を帯び、視界は歪み始め目尻は熱を雫に変え、それは今にも溢れこぼれ落ちそうになっていた。
すると、微かに香る、白檀が鼻孔をくすぐった。そして背中越しに伝わってくるのは彼の温かな体温。私の身体は彼の……石切丸の大きな腕に包まれていた。
最後は私が言わなくちゃ、私がやらなくちゃ。
私を抱きしめる優しく大きな手に、自分の手を添える。堪えてたはずの雫が目尻から頬を伝って流れ落ちた。
「ありがとう、そして……さようなら」
彼の生温かい吐息が頬を掠めた。その方を振り向けば唇に何かが触れる……それは彼の唇。ほんの少しの触れるだけのそれは、とても……とても甘くて、けれども少し塩っぱい……そんな口付けだった。それは石切丸と交わす、最初で最後の口付け。
1秒のような……けれども永遠とも感じ取れるような時間が過ぎた後、彼の唇がゆっくりと離れた。
「君に涙は似合わないよ……笑って、私の愛する人よ」
最期にそう言って藤紫の瞳を細めると、彼は切ないくらい綺麗に微笑んだ。彼から放たれる、蛍のような無数の淡い光。それは四方に散らばっては雪空を漂い、そして舞っては彼の身体は段々とその光の中に消えていく。堪えきれず、彼の方へ伸ばした指先は、彼に触れることなく虚空を切った。
「もう、貴方と巡り合うことなんて二度と無いけれど、もし……もし、もう一度出逢えたら」
もう無理かもしれない。この先、一生、貴方と巡り合うことはないかもしれない。それでも願わずにはいられなかった。貴方と再び、共に過ごせる未来を。愛し合えるその日を。
「私を……また愛してくれますか?」
冬の蛍は白の結晶が降り注ぐ冬の夜空に消えていった。
残るのは微かな温もりと白檀の香。
夜が明ければ、昨夜降っていた雪が嘘のように空は雲一つない晴天だった。陽の暖かさの所為か……地面を白一色に覆っていた雪も溶けだし、所々茶色を覗かせていた。
胸を裂くようなこの想いも、いつかはこの雪のようにやがて溶けては消えていくのだろう。そしてそれは思い出に変わり、あんなこともあったと振り返り懐かしむ日が来るのだろうか。そう自分に言い聞かせてはみるが、赤く腫れた瞼、目尻からまた熱いものが込み上げてくる。
今にも流れ出しそうなそれを手の甲で拭うと、荷物を手にその部屋を後にした。
この雪とともに……
(消えた貴方は私の大切な、愛しい人でした。)(20160811)