私は海馬邸に遊びに来ていた。
海馬邸に着くと、磯野さんが出迎えてくれて、直ぐにそのまま瀬人の部屋に通される。部屋にはすでに彼の姿があって、足を組んで本を片手にソファに座っていた。風でレースが舞う開け放たれた窓からは暖かい太陽の光が差し込んでいて、その光景がまるで絵画のようで、思わず見とれてしまった。
「おい、いつまでそこに突っ立っているつもりだ?」
「え?あ……は、反対側に座るね」
瀬人の言葉で慌ててテーブルを挟んで反対側のソファに座る。そんな私を見てか彼はフッと笑みを零した。そして暫く経つとドアの方でノックの音が響いた。そのノックの後に失礼します、という女性の声。瀬人がそれに短く返事をすると部屋のドアが開いた。レース付きのカチューシャに黒いシンプルなロングドレス、白いフリルのエプロン……そんな古典的なメイド服を纏ったメイドさんがワゴンを押しながら部屋へ入ってくる。そしてテキパキとテーブルにコーヒーカップとお菓子を置いていくと下がっていった。
コーヒーカップはとても凝ったデザインをしていた。カップを縁取っているお洒落な金の模様……とても高そうだなと思いながら、コーヒーカップの中身に視線を移す。
そう、問題があった。コーヒーカップなのだ。当然カップの中身は……黒い液体。心の中でその黒い液体に向かって静かに溜息をついた。
コーヒーなんてまともに飲んだ事がないし、それに苦いものは大の苦手だ。寧ろ甘いものが大好きな訳で。……いつもここに来る時は紅茶だった気がするけれど……まぁ、折角用意してくれたのだから、我が儘は言えない。
顔を上げると目の前には、コーヒーカップと同じデザインのミルクや角砂糖が入った器があった。それを手に取ると、甘くなるようにと念じながら、コーヒーカップに角砂糖を落としていく。
「瀬人は砂糖とか入れないんだね」
ふと、瀬人の方を見遣れば、さっきまで持っていた本をテーブルに置き、長い指で持ったコーヒーカップを口元にもっていこうとしている彼が視界に入った。私は砂糖を入れていた手を止め、そんな瀬人をまじまじと見た。
瀬人は甘いものが好きで、大量に砂糖を入れてたりしたら可愛いなぁ……と、そんな事を思ったけれど、やはり実際はコーヒーカップには何も入れずに、そのままで飲もうとしている彼が目の前にいた。
「そう言うお前は砂糖を何個入れるつもりだ?」
怪訝そうな顔をして瀬人が言った。彼の視線の先を辿ると私の手元に辿り着く。
右手には角砂糖。
左手には角砂糖が入った器。
そしてテーブルに置いてあるのは、小さな山を作り始めたまだ砂糖が溶けきっていない、コーヒーの入ったカップ。
「え?甘くなるまで」
私が当然のように答えてまたコーヒーカップに右手の砂糖を入れ始めたら、瀬人が眉を顰めた。
「名前……すでに十分甘いと思うが?」
「きっと全然まだまだよ」
「ふん、子供だな」
そう言うと、瀬人は手に持つコーヒーカップを口元へと運ぶと、それを優雅に飲み始めた。
「な、何よ……自分はコーヒーに何も入れないで飲めるからって」
「これ位飲めて当然だろう?そうか……お前は子供だから飲めないのか」
「子供じゃ、ないもの」
「ほぅ……ならば何も入れないで飲んでみるか?」
そう言って持っていたコーヒーカップを私の方に差し出してきた。彼の方を見ると口元が笑っていて……これは完全に面白がっている気がした。 そんな瀬人を思いっきり睨むと、差し出されているコーヒーカップを受け取る。彼に子供だなんて言われて、このまま素直に引き下がる訳にはいかない。
コーヒーカップの中身を覗くと、瀬人が飲んだからか、そんなに量は残っていなかった。これなら絶対に大丈夫と覚悟を決め、コーヒーカップの口元に持っていき、そしてその中身を啜る。
段々と口の中に苦味が広がっていった。
「うっ……苦い」
思わずそんな言葉を零してしまったが、そんな事より先に、口の中に残る苦味をどうにかしたかった。持っている瀬人のコーヒーカップを置き、砂糖が大量に入った自分のカップに手を伸ばす。そして、今度はそれを一気に飲み干した。
甘い。とても甘かった。けれども彼のブラックコーヒーの苦味を消し去るには丁度いい気がした。
「当たり前だろう。ブラックだからな」
「っ……そ、そうですよねっ」
そんな私を見て瀬人は楽しそうに言葉を発したが、悔しいけれど、言い返す言葉が見つからない。
「……オレは甘いものがあまり好きではないが、時々食べたくなる時はあるな」
ふと、突然独り言のように瀬人がそんな事を呟いた。やはり彼だって全く甘いものを食べない訳じゃないんだと、心の中でガッツポーズをしてる間に、テーブルを挟んで向かい合って座っていたはずの彼は居なくなっていた。
「名前、……こっちだ」
声のした方に顔を向けると、すぐ近くに彼の顔があった。……私を見つめる澄んだコバルトブルー。私はそれから目を逸らせずにいた。段々と近づいてくる彼の瞳、そして整った顔。
唇には彼の柔らかい感触……
「んっ……」
重なり合う私と彼の唇。キス。ただ触れるだけのものだったが、段々と恥ずかしくなってきて顔を背けようとする。が、瀬人の大きな手によってそれは阻まれてしまった。そして彼はキスをより深いものにしてきた。
息を吸い込もうと唇を薄らと開けた瞬間、生暖かい何かが割って入ってくる。それは口内を蠢き、私の舌を捉えると絡み合わせてきた。それと同時に感じたのは苦味。コーヒーの苦味だった。そこから先、肺は空気を求め頭が段々と混乱し始めた頃、彼はゆっくりとその舌を、そして唇を離す。私と彼の間を銀の糸が繋ぎ、彼が離れるとそれは切れた。
「少々、甘過ぎ……だな」
「あ……」
段々と自分の顔に熱が帯びていくのが分かる。熱い。恥ずかしさからなのか、それとも先程の激しいキスによるものなのか……
「何だ、刺激が強すぎたのか?顔が真っ赤だぞ」
「なっ……」
ククッ、と喉の奥で笑う声が聞こえた。反論してやりたいのに、頭の中がボヤけて……頭の回転がイマイチ遅いようで、彼に何も言い返せなかった。
「やはりお前はまだ子供だな。だが……」
何も言えない私に対して瀬人は余裕の笑みを浮かべてそこで一旦言葉を切る。
「そんなお前をオレの手で大人にするのも良いかもな」
一呼吸置いて瀬人の色っぽい声が響いた。
これ以上赤くならないと思っていた自分の顔が、より一層赤みを増したのを感じた。
Bitter or Sweet
(20071006)
※加筆修正(20170328)