「えっ……瀬人?」
「だから予定を空けておけ」
プツッ、と音を立て、そこで電話は切れた。
「はぁ……?」
彼氏彼女の会話とは思えない、会社の社長らしいいたって簡潔な用件だけ。
しかも急にこの後の予定を空けとけ、というこちらの事情は全くお構い無しのあまりにも彼らしい電話。特別この後用事があった訳でもないけれど。まぁ、強いて言うのなら、音楽を聴きながらゆっくりお風呂に浸かり、ほんの少しの勉強とテレビを観るくらい。
とりあえず、携帯など最低限必要な物を鞄に詰めて玄関に向かい外に出る。外は夜の所為か少しヒンヤリとしていて、冷えた風が頬を撫でるように掠めていった。
視線を前に向ければそこにはすでに瀬人が立っていた。そして彼の後ろには磯野さんが運転席に乗っているだろう、黒塗りの高級車。
「いつまでそこに突っ立っているつもりだ?早く車に乗れ」
もう20時も過ぎているのにこんな時間にどこへ向かうのかと考えていたら、痺れを切らした彼が早く車に乗るように促してきた。
それもそうだと、運転席の磯野さんに軽く挨拶をして後部座席に乗り込む。続いて彼も後部座席に乗るとゆっくりと車は発進した。
「着くまで内緒だ」
言葉に出していないはずなのに、私の聞きたい事はお見通しのようで……ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、とても楽しそうな声音で瀬人は言った。それは子供が親に悪戯を仕掛けるような感じにどこか似ていて。仕事詰めで毎日大変な彼が少しでも楽しめるならそれも良い……とは思うけれど。勝手にこんな時間に呼び出しといて『内緒』という答えにはほんの少し納得がいかないところはある。
「ねぇ、内緒ってどういう……あっ」
やはり気になって聞こうと彼の方に顔を向けようとしたら、急に瀬人の手が伸びてきて目元を覆われ視界が真っ暗になった。
「着くまで内緒、だ。もしそれ以上何か聞こうとするのであれば、その唇も塞ぐぞ」
そう瀬人が言った直後、彼の香りと気配をすぐ近くに感じた。唇に軽くかかる吐息、更に何かが近づく感覚。そして柔らかいものがほんの少し唇に触れた瞬間、磯野さんの咳払いが車内に響いた。
目元は彼の手で覆われたままだけれど、苛立ちを全く隠さない舌打ちと共に近くに感じた気配は消えた。
「磯野、例の場所に向かえ」
「っ……はい、瀬人様」
やはり少し苛ついているような瀬人の声、そしてそれに答える若干上擦った磯野さんの声。
きっと磯野さんはバックミラー越しに私達のことが見えていたはず……
そう考えると目的地に着いて瀬人の目隠しから開放された時、どんな顔で磯野さんと顔を合わせればいいのか。もうそっちの方が気がかりで、秘密にされてる目的地の場所は半ばどうでもよくなっていた。
「名前。車から降りるぞ。足元に気を付けろ」
「う、うん」
あまり長い時間乗ることはなく車は停車し、降りることになった。
移動中に目元を覆う瀬人の手は外れ、目を瞑る形になっていたが、やはり降りるとなっても彼は『開けていい』とは言ってないので目は瞑ったまま。
瀬人の腕に掴まりながら車を降りると、坂なのか角度がある道を登っていく。
『見えない』状態というのは中々不安なものだった。彼の腕に掴まっているとはいえ、そこは知らない場所。どこに何があるか分からないし、転けてしまわないかと心が落ち着かない。
坂を登りきったのか、彼がゆっくりと足を止めた。そこはだいぶ明るいのか、目を瞑っていても光が差し込んでくる場所だった。
すると、何かが肌に触れた。
ううん、違う。触れる、なんて確かなものじゃなくて何かが掠めた。
一体どこなんだろう、ここは。
段々と不安になってきて、彼の腕を掴む手に自然と力が籠る。
「名前……目を開けろ」
低音だけれども、どこか柔らかさを感じる声が耳元に下りてきた。その言葉に従って、私は瞑っていた目をゆっくりと開ける。
最初に見たものは眩しい光。
段々とその光に目が慣れてくると、霞んでた風景がハッキリと鮮明に見えてくる。目の前に広がる幻想的で美しい光景に思わず息を呑んだ。
「す、すごい……」
全く欠けのない丸い月、その月から降り注ぐ光とそれを損なわない様に控えめにライトアップされた、小高い丘の一本桜。
そしてさっき肌を掠めたものの正体……優しく撫でる様な風が吹く度に、ふわり、ひらりと舞い落ちてくる淡い桃色の花弁だった。
明るく輝く月を浮かべても尚黒に近い濃紺の夜空、そして月に、明かりに照らされながら儚く淡い花弁を舞散らす桜……その対比にうっとりしてしまう。
瀬人が……彼が見せたかったのはこの景色だったんだ……
「瀬人っ」
「昼間の花見もいいが、夜に見る静かな花見もいいだろう?」
そう言って柔らかく微笑む瀬人にどうしようもない愛しさを感じると共に、つられるかのように自然と笑みが零れた。
「うん!ありが……クシュン!!」
「……おい、このムードそれは何のつもりだ」
本当に彼の言う通りだと思う。なんでこのタイミングで……
体が冷えてきたのか思わずくしゃみをしてしまった。あまりにも突然だったものだから堪えることも出来ずに……あんまりなタイミングに恥ずかしさで少し悲しくなってきた。
「ごめん……春でも夜はちょっと肌寒いね……」
「ほら……これを着ていろ」
呆れながらも、羽織っていたコートを脱ぐとそれを私の肩に優しく掛けてくれた。コートはとても大きくて、温かくて……大好きな彼の香りがして。
そしてどちらが先という訳ではなく、S極とM極まるで磁石のように互いの手が絡み合う。大きく骨張った彼の掌に、何とも言えない安心感と幸せに包まれた。
「ねぇ、瀬人。来年も……来年もこうやって一緒に桜見ようね」
「ああ」
桜降る丘、君と二人
(20090327)
※加筆修正(20170322)