氷解

貴方の傍に居られるのなら、
それが苦しく愚かで報われない道だったとしても……構わない。



「瀬人様……今日のお夕食をお持ちしました」
「……入れ」

温かな夕食を載せたカートを押し、部屋の前に立つ。立派なドアを軽くノックし声をかければ、部屋の主から返答が返ってきた。失礼します、と一言、金のドアノブに手を掛け中に入る。
広く豪華な部屋。その最奥、夜景を背負いデスクで書類に目を通す主の姿を確認すると、料理が載ったカートからテーブルに食事を置いていく。テキパキと夕食準備を進め、全ての準備が整うと、一礼してドアの方へ向かう。

「それでは、失礼しました」
「待て」

そう彼が言った瞬間、部屋の照明が消えて一面真っ暗になる。消えたばかりで目の調節が追いつかず、なかなか慣れなかった。不安になって、何か掴めるものを探すように腕を上げたが、急に手首を掴まれ引っ張られた。そしてそのまま柔らかいものに倒れ込む。
感じるのは温もりのない冷たい布、柔らかい何かに沈む感触だった。窓の外、雲から顔を覗かせた月が蒼白く部屋を照らすと部屋全体が見えてきた。倒れ込んだベッドから見上げた先、そこには彼の冷たく深いコバルトブルーが鋭い眼光を放っていた。

「っ瀬人……さ、ま?」

彼の名を呼んだが、私を見据えたまま何の返答もなかった。見つめるのは、先程と変わらず青い炎を燃やしているかのように深い彼の瞳。吸い込まれてしまいそうな程のそれから、目を逸らすことが出来なかった。
徐ろに、彼はネクタイを緩めてそれを外し始めた。シュル、と小気味のいい音が部屋に響く。そしてそれを私の両手に括りつけると、そのまま縛った。彼の長い指先は、私の纏うエプロンのリボンを引っ張り、外し、そのまま黒いロングドレスのボタンも乱暴に外していった。

「せ、瀬人さまっ……お食事が冷めて、しまいますっ」
「……別に構わん」

彼の突然の行動に慌てて口にした言葉。何故この状況で自身の心配より、彼の食事の心配などしているのか、言った後にはもう遅かった。何故かなんて考えるのもそれもまた、すぐに混乱の種になっていく。それ程までに彼の行動は私の頭の中を掻き乱すのに充分過ぎるものだった。

彼の氷のように温度のない冷たい指先、それが体中を這いずり回る感触に私は何も出来ずにいた。今ここで、例え叫んで助けを求めたとしても、それは誰の耳にも届かないのは知っている。突然こんなことになって、逃げたい筈なのに、不思議とそうは思わなかった。触れられることが嫌ではなかった。それは、彼のことが好きから。ただ、こんな形ではなく、もっと他の方法であったのなら……
表情が見えない、彼の頬にそっと手を伸ばす。けれども、触れるか触れないかのところで手を下ろした。
貴方は氷みたいな人。
氷は熱に弱いから……きっと触れれば、一瞬で溶けて崩れてしまう。
貴方が私を求めることはあっても、私が貴方を求めることはあってはならない。
私が貴方に好意を寄せ愛していたとしても、貴方に愛されることを望んではいけない。
私はただの使用人で、貴方は主。
きっと触れた瞬間、すべてが終わってしまうから。

「瀬人さ……ま」
「瀬人と呼べ……」
「せ、と……っ」

訂正した彼の名を呼べば、動かぬように手で顎を固定された直後、噛みつくような口付けが降ってきた。強引に唇を割られ、生温かいものが入ってくる。飢えた獣のように獲物を捉え貪るようなそれは、口内を深く掻き乱した。
そんな乱暴な行為とは裏腹に、彼のその表情はどこか憂いを帯びていた。

何故、そんなに悲しそうな顔するの。
何故こんなにも私の心は悲鳴をあげるの。

感じるのは心を凍らすようなその冷たさ、胸を引き裂くような痛み。
ふと彼を見上げればほんの一瞬、コバルトブルーの視線と目が合った。それは誰かを愛おしく思うような、澄んだ柔らかい色。けれどもその後すぐにその色を深く濁らせ、何かに耐えるように顔を歪ませる。
その表情は強く頭に刻み込まれるくらい、胸を衝くものだった。
何故、そんな表情を私に向けるの……?

深く考えれば考える程混乱していく頭の中に、そして心に……もうこの時には半ばどうでもよくなっていた。
貴方の傍に居られるのなら、貴方が私を求めてくれるのなら、それ以上は何も望まない。
それが苦しく愚かで報われない道だったとしてもいい。


ねぇ、神様。
こんな愚かな私を嗤いますか?



ゆっくりと瞼を開けると、眩しくも柔らかな陽の光が部屋を照らしていた。ハッと、周りを見渡すが、出勤したのかここには彼の姿はなかった。自由に動く手に、両手を縛っていたネクタイが解かれていることが分かる。彼の手によって脱がされた筈の服もきちんと来ていた。昨夜の出来事なんてなかったかのようで……まるで長い夢を視ていたかのようで。
頭の奥の方に微かに残っている記憶。何故だろう、切なくも、それでもどこか幸せな気分だったのは……
昨夜、意識を失うような感覚に襲われたその瞬間、聞こえた気がした彼の言葉。
すまない、と何かに耐えているかのような、それとも罪悪感か……苦しげな低音で切なそうに小さく呟いた彼の言葉。その言葉を思い出しては、彼の声をいつまでも頭の中に反響させていた。

『こんな形でしかお前に想いを伝える術を知らなくて、すまない……』



氷解




(20151009)
※加筆修正(2017/03/30)