それは泡沫の様に

重たい瞼をゆっくりと開ける。
カーテンの波間から射す白い光に、慌てて目を細めた。白く霞んだ空の向こう側に橙の朝焼け。

「瀬人……」

愛しい人の名を呟く。
そして私に背を向ける瀬人の栗皮色の髪へ指先を伸ばした。3センチ、2センチ、1センチ……髪先に触れるか触れないかのところで、背中越しに小さな溜息が聞こえた。
寝返りを打ち、私の指先を掴んで鬱陶しそうにこちらに顔を向けた海色の瞳。
それは異様に冷たく、私を吸い込んでは呑み込んでいく様な深い色に目を逸らすことが出来ない。まるで溺れるかのように胸がギュッと苦しくなって、呼吸する事さえも酷く難しかった。

「……お、起きていたの?」
「……」

苦しさを飲み込んでやっと発した私の問いに、瀬人は瞳を伏せて無言を返す。
瀬人の冷たい視線から漸く解放され、乱れた呼吸をゆっくりと整えていく。鼻から吸い、口から吐き出していく。そして呼吸が落ち着いてきて頭が回るようになってくると、段々と憂鬱になってきた。
何故なら、今日で瀬人との“契約”は終わりだから。

瀬人は特定の恋人を作らない。
期限付きで一定期間こうして付き合い、頃合いになると別れて次へ……
そういう契約。



「瀬人、……私っ」
「……」

それ以上何も言うな、と言いたげに、瀬人はベッドサイドに置かれた煙草とジッポーを手に取る。そして気怠げに煙草を唇に咥えると巻紙の先端に火を点けた。明るくなり始めたベッドルームに、瀬人の吐いた紫煙がゆらゆらと揺れる。
私はその儚く揺れる紫煙を眺めながら、瀬人に伝えようとしていた言の葉をゆっくりと喉奥の方へと仕舞い込む。
“貴方が好き、愛してる”
貴方から離れたくない、そう言いたくても言うことは許されない。何度も何度も自分に言い聞かせる。
瀬人とは終わったのだ、と。



「わかっているな?」
「……うん」

念を押すように目を細め私を見つめる瀬人に、私は小さく返事を返した。
彼は“忘れろ”と言っているのだ。今まで自分に関わってきた事全てを。勿論、瀬人に抱いてきた感情も。

いつか夢見た、光溢れる光景。
愛する人に愛され、これ以上にないくらいの幸福に包まれた甘く美しい世界。
けれどもう、いくら手を伸ばしても届かない、触れられない。
それは今私の目の前で、泡沫の様に揺れては淡く弾けて消えていった。

「ねぇ、教えて?」

貴方が望むのなら、貴方との全てを忘れて消してもいい。
微塵に砕いて捨て去ってもいい。
でももし……もし、再び貴方と出逢えるなら……



それは泡沫の様に

(その時は私を……最期まで愛してくれますか)


(20180723)